「わたし」と「れきし」、「わたしたち」と「れきし」
こんにちは、自由の森学園図書館です。 ただいま図書館では、本学園の社会科、「わたし」と「れきし」展実行委員会の皆さんと一緒に、「戦争と平和について考える」企画・展示を共同で行っています。 特に図書館と学生たちの展示では、「戦争」を大きなテーマとしながらも、人権、環境問題、差別、など、現代社会の抱える様々な課題についても向き合うような内容になっています。 「 遠ければ遠いでできることはないと言って背を向け、近ければ近いで恐怖と不安があまりにも大きいと言って誰も立ち上がらなかった。ほとんどの人が、感じても行動せず、共感するといいいながら簡単に忘れた。感じる、共感するというけれど、僕が思うに、それは本物ではなかった。 」 『アーモンド』ソン・ウォンピョン / 著 矢島暁子 / 訳 p.245 展示の中で紹介されている本の1つです。 ちょっと「どきり」としませんか? 私たちは無意識のうちに「私には関係ない」と目を背け、顔を逸らしている「れきし」がある。 「れきし」は過去だけを指す言葉ではありません。 「いま」を、「みらい」を含んだ、「わたしたち」を表す言葉だということ、それを改めて教えてくれたのは学生たちでした。 私たちは過去に起こった凄惨な出来事に直接関与していない、だからその「責任」を負う必要はない。__果たして本当にそうだろうか? 本当に、それでいいのだろうか? 私たちも、「わたし」と「れきし」展実行委員会の皆さんも、確かな「答え」を持っているわけではないけれど、様々な場所で、様々な人たちと、一緒に話して、考えていきたいという思いは強く持っています。 展示を通して皆に問いかけます。 今現在の世界は、あなたの周りの「せかい」は、「あなた」自身は、“平和”ですか? 「へいわ」ってなんだろう、「れきし」ってなんだろう。 おそらくこ の「モヤモヤ」は簡単に晴れないのだろうけれど、自分が行っているかもしれない加害に気づき、今この瞬間にも苦しんでいる人が必ずいるということから目を背けない。 そして、何ができるのかを考え、一歩踏み出す。手を伸ばす。 言葉で言うほど簡単なことではなく、理想論のように聞こえるかもしれませんが、語ることのできる“理想”すらない方が、より危ういことではないでしょうか。